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「御顔を仰ぐ」批判への反論

日本でイエス様の御顔を仰ぐ―日本を愛する人は必ず読みましょう!

私たちが出版した書籍のうちの一冊である『イエス様の御顔を仰ぐ』(デービッド・E・テーラー著)に対する批判が私の目に留まりました。以下のような批判です。

記事やブログで批判されていることの中心は、デービッド・テーラー氏(『イエス様の御顔を仰ぐ』の著者)が書いた通りのことが起こっていないということです。すなわち、イエス様ご自身が、この本を読んだ読者の前に現れると仰ったのに、それが実現しなかった人々がいるというものです。だから、この本は疑わしいと主張しているのです。

良い機会ですから、この愛する私たちの国、日本で神様の栄光を見たいと切に願う皆様、そして、日本のリバイバルを願って神様の御顔を見続けてきた皆様にお伝えしたいと思います。

第一に、テーラー氏は、イエス様が夢の中に現れたと述べました。そして、本を読んだ全ての読者の所にイエス様が現れるだろうと述べました。そもそも、そのことを仰ったのはイエス様でした。テーラー氏が「この本を読めばイエス様が現れますよ」と誰かに直接約束したわけではないのです。イエス様が仰った通りに引用しただけです。御言葉を実現してくださるのは神様であって、人ではありません。同様に、それが起こる時機も主しだいでしょう。私たちに必要なのは、主のしもべを通して主が私たちに啓示してくださった御言葉が実現することを忍耐強く神様に求めることです。イエス様があなたの所にまだ現れていないからといって著者を疑うのは無意味なことです。

第二に、著者は、本を読んだ翌日にイエス様が現れるとは言いませんでした。その特別な現れの時機は、あくまでも主の御裁量によるのです

 第三に、私たちが自らを正しく省みて謙虚な心を保つようになることは重要なことです。この本は韓国でも出版されましたが、ただ本を読んだというだけの5万人以上の人々の所にイエス様は現れてくださいました。謙虚な思いがあるなら、そのようなことがこの地でまだ大々的に起こっていない理由を問うと良いでしょう。ここ日本にいる神の子どもたちである私たちに、主は何を期待していらっしゃるのでしょうか。神様に私たちと共に御業をなしてくださることを願うなら、私たちは柔和と謙遜を身につけなければなりません。

また、この本を読んだ後、御約束通りに主イエス様の現れを体験した人々が世界中にいることは事実です。
多数の人々を殺し、首を刎ねてきたアイシスの有力メンバーの一人が、主イエス様の御顔を仰ぐために書かれたこの本を譲り受けて読んだ後に、その人生をイエス様に捧げるということが最近起こりました。そして、その後、イエス様は実際に彼の所に現れてくださったのです。

デービッド・テーラー氏の下で働くスタッフの半数以上についても同様です。主イエス・キリストの御顔を仰ぐための本を読んだ結果、主イエス・キリストが彼らの所に現れてくださいました。

第四に、批判記事について冒頭で紹介しましたが、その女性は次のことを知っておくべきなのです。ある牧師が彼女と同じ県に住んでいますが、私の事務所を訪ねて、この本を読んだ後にイエス様が4度も現れてくださった様子や、その後、彼の教会の多数の子どもたちの所にもイエス様が現れてくださった様子を証していました。同様に、この日本でも、この本を読んでからイエス様の現れを体験したという人々の証を聞いています。その中には、使徒であるテーラー氏の聖会が2016年5月に日本で行われた際に会衆の前に招かれた人々もいました。

批判記事を書いた女性は、次のことも知るべきです。今この記事を書いている私も、会衆の前に招かれ、主イエス・キリストによって祈られるという体験をしました。2015年8月に癌の癒やしのために行われたデービッド・テーラー氏(主イエス様の御顔を仰ぐための本を書いた著者)の聖会でのことです。主が実際に現れてくださいました。その証拠となる写真もあります。

2015年には、デービッド・テーラー氏(その本の著者)が開いた集会のうち、実に三つの集会で主イエス様が3度歩いて来られ、人々のために祈ってくださるということが起こりました。

2015年8月、ここ日本で行われた奇跡の聖会の2日目に、主イエス・キリストが、私たちが滞在していたホテルに、そして、デービッド・テーラー氏の部屋に歩いて入って来られ、日本のリバイバルは御顔を仰ぐことにかかっていると仰いました。イエス様は、イランやイラクをはじめとした中央アジアにあるイスラム圏の国々の大半でなされているように、日本でも実際に人々の前に現れて強力に動くことをお望みなのです。イスラム圏と同様に福音を伝えるのが難しい日本で、そうなさりたいと主は仰ったのです。

2016年、主イエス様はテーラー氏の集会に2度、実際に現れてくださいました。集った人々のため直接祈り、祝福してくださったのです。そして、2016年12月29日から31日に行われる「王と過ごす夜会」と呼ばれる集会にも現れて人々のために祈ると約束してくださいました。

この本を批判したり疑っているような人々も、この本が出版された国々で確かに売れ続けてきたことや、日本においても例外ではないということを、やがて知ることになるでしょう。日本のキリスト教書店では、実際にベストセラーとなっています。この日本でも長期間ベストセラーになると目されています。

ですから、この御顔を仰ぐ働きの「神の預言者」について、また、神様から書くようにと促されたこの本について、水を差したり悪く言い立てたりするのは残念なことです。神様が望んでおられるように日本で動こうとされる働きを阻止しようとする敵の策略以外の何物でもありません。世界中でなされている主イエス様の御顔を求める動きに否定的な立場で集まったり発言したりする勢力はどのようなものであれ、神の御霊によって語ることなどできないのです。 イエス様は愚かなお方ではありません。後押しも支持も支援もしていない人の集会にわざわざ御自身の姿を見せるようなことをなさる理由がありますか?あるいは、御自身に関わりのない人によって開かれた集会にわざわざ登場して関わりのないミニストリーや働きを承認なさる理由があるでしょうか?デービッド・テーラー氏の集会で人々を訪れ、祈ってくださったのは何故でしょうか?

神様を愛し、神様の栄光が動き日本を覆うのを見たいと願う私たちは、自信を失ったり欺かれてはいけません。神様が他の国々で既になさっていることなのに、日本ではなさることができないとか、なさるおつもりがないなどと信じてはなりません。神様は日本のことも等しく愛しておられます。私たちの愛する国、日本で神様の栄光を見るために、火のような熱い心で信じて行動しなければなりません。

最後に、私たちは、神様の約束には信仰が求められるということを知らなければなりません。聖書が書かれた時代、イエス様が肉の姿であられた時でさえ、主に出会った人の全てが癒やしを受けたわけではありませんでした。奇跡を受けるためには、主が仰ったことを信じる信仰が求められたのです。多くの場合、イエス様は、癒やした人々に対して「あなたの信仰があなたを癒やしたのです」と仰いました。つまり、信じたから癒やされたのです。

『へブル人への手紙』11章6節で、信仰がなければ神に喜ばれることはできないと教えられています。また、主の所に来る者は、主こそが主を熱心に求める者に報いてくださるお方であることを信じなければならないと教えられています。

欽定訳聖書(試訳)

しかし、信仰がなければ神を喜ばせることはできません。というのは、神の所に来る者は、神が存在していることと、神が御自身を熱心に求める者に報いてくださる方であることとを信じなければなりません。

この「熱心に」という語はギリシア語で「探し 出す 」という意味で、探す者の 個人的な意思 を強調するものです。つまり、探す者によって 熱烈に 個人的に望まれた 結果 です。そのような探求だけが、それを掻き立てる動機と同様に価値のある(実行可能な)ものなのです。
私たちは、都合の良いときに何でも欲しがる時代に生きています。労を惜しまずに神様を求めることや、神様から得たいと願うもののために代価を払うことが大切だとは考えません。神様の御前に心を整える必要についてもです。何か霊的なものを神様からいただく必要がある時には、心を整え、神の御言葉に信頼し、従って立ち続けなければなりません。熟したベリーが木から落ちるように、神様の全ての約束も私たちの上に簡単に降ってくるものだと考えがちです。しかし、神様の約束に関しては、信仰深くなるように心を傾け続けることが大切です。神様と繋がるために「ファーストフード店」的な、または、電子レンジ的な精神を用いることはできません。神様は私たちの心と動機を見ていらっしゃいます。私たちが期待しているものが期待する時に見えないようであったとしても、神様を追い求めることに尻込みしたりあきらめたりしてはなりません。

『ユダの手紙』10~11節(口語訳)では、次のように警告されています。
10しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。 11彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。

私達はそしる者になってはなりません。また、知りもしないことを裁いたり説明付けようとする際には注意深くなければなりません。神の人の中には、その地位を維持しようとするあまり、所属している教会や団体に留まり、信奉者たちを従わせて、常に「何でも知っている者」のように振舞おうとします。知りもしないことを説明しようとして他者の信仰まで破壊して神の御言葉に対して不正を行っているのです。口先で語られた偽りによって愛する兄弟姉妹の命を奪います。それは、カインが弟のアベルを殺したのと同じです。コラのように手に負えない野望に突き動かされる者もいます。神の人々の中心になりたいという「地位獲得」への熱望です。あるいは、知りもしないことを率先して説明するか嘲笑するかして、自らの偉大さを示そうとするのです(彼らは、うぬぼれているだけです)。

神様が私達の国、日本を祝福してくださる時を待ち望み、日本に神様の動きが起こることを叫び求めてきた同志の皆さんを励ましたいと思います。神の御子を信じる信仰の一致へと成長していくことを私たちにもたらさない「預言者」などと呼ばれる人々に欺かれてはなりません。また、そのような人々の話に耳を傾けるをやめなければなりません。

(『エペソ人への手紙』4章13節)
New Living Translation(→口語訳で表示)
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

私達は神様の息子たちにまで成長するため召されました。神様の息子たちは成熟します。神様の栄光と油注ぎの下での活動の違いがよく分かっています。キリストの御体で今日私達が目にしているものの大部分は、牧師や預言者が聖霊の賜物を駆使している様子です。それ自体は悪いものではありません。(なぜなら、それは聖書的であるからです。私もまた、聖霊の賜物をいただいて奉仕をしています)。しかし、神様の息子たちにまで成長し、神様の栄光の中で活動するという段階には至っていません。その段階は、神様の油注ぎによる働きに頼るばかりでなく、私達と共に働いてくださる神様ご自身に頼るというものです。そこでは、私たちの人生に主の統治が及び、様々な事柄が超自然的に治められます。主の栄光が実体を伴い、存在感を増します。主の栄光とは主の高価さ、主の真価、主の富、主の評判、主の誉れ、主の重厚さです。それは、私たちが聖霊の賜物として受けるものとは違いますが、主と共に歩む中で建て上げられるものです。私たちは神様によって練られる必要があります。私たちが本物の柔和と謙遜を身につけるためです。聖書の『コリント人への手紙 第二』4章17節にある通りです。

欽定訳聖書(←口語訳で表示)
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。

聖書によると、これらの聖霊の賜物は、私たちが天国に入る時にはその働きを終えるとあります。天国に入れば、私たちははっきりと明らかに知ることができるようになるからです。天国では聖霊の賜物が不要になりますが、聖霊様の御臨在と油注ぎはもちろんあるでしょう。神様の栄光と、私たちが主と共に歩む中で築かれた栄光は永遠のものとなります。

最後に伝えたいことがあります。誰にとっても、あなたのリズムを作る音楽があります。全能なる神の作品に応える音楽があるのです。

『コリント人への手紙 第一』13章11~13節(口語訳)
11わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 12わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

神様の栄光は重厚なものです。そして、それは建て上げられていかなければなりません。聖霊の賜物とは別のものです。信仰において幼子である時でさえ、その中で働くことができるのです。コリントの教会は聖霊の賜物を力強く駆使していましたが、霊的には主にあって幼子の状態でした。癒やしや奇跡を行う賜物、異言や知恵の言葉や霊を見分ける賜物などをまさに駆使していましたが、パウロからは肉の思いで満ち、幼子のようだと評されたのです。私たちが「子とされる」、つまり、神様の息子たちにまで成長する中で(成熟し、地上の王として歩めるようになり、神様の息子にふさわしい熟練さと統治力を示しつつ)、その違いを見極めることができるようになるのです。私たちの多くが抱える問題はそのことなのです。というのは、私たちは病人のために祈る人々を目にし、また、人々が癒やされるのを目にします。その祈りは神様の息子たちとすれば十分に成熟しているとは言えないものであるかもしれません。ただ違いが分からなかったという理由で、いわゆる重厚さというものや、ありったけのものを全て用いるのです。ですから、私たちは、権威は、そして、権力というものは、聖霊の賜物に満たされて働いている人々にあると考えるものなのです。それが、そのような土の器を往々にして思い上がらせることになります。そして、神の御言葉に対して不正を行ったり、(よく知りもせず理解もしていないことを説明しようとして)キリストの御体を誤った方向に導くことになりかねません。それは単に、私たちが未だに幼子で、判断を下すには「近視眼的」であるからです。それは、私たち自身がキリストにあって幼子のままでいたいと思っているからかもしれません。熱心にキリストを求めていないのです。

今がその時です。そして、私たちが御国の時代にいることを知ることは大変重要です。この時代に、私たちは成長を遂げて、幼子であることを拒むことが求められています。教義の動向が変わるごとに幼子のように向きを変えたり、聖霊の賜物に満たされて働いているという理由だけで判断して、ある人の言葉に左右されるべきではないのです。

隣国の韓国で「御顔を仰ぐ」ことについて書かれた本を読んだ何千という人々の所に主イエス様が現れてくださったのなら、私たちの国、日本も例外ではないはずです。私たちの目と心を神様の約束に向けるようお勧めしたいと思います。私たちの所に現れてくださるというイエス様の約束を疑わせるような教えや思想を私たちの思いと心から退けましょう。主は御言葉の中で次のように仰いました。

『ヨハネの福音書』14章18節

欽定訳聖書(←口語訳を表示)
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる。

主イエス様の現れを体験した何人かの人の短い証が下記のリンク先にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=Z-LlhN6fhZo

下記のリンク先には、2015年8月、主イエス様が私を招き、祈ってくださった時の写真があります。
https://www.youtube.com/watch?v=qU6-jByBQyg
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