アメリカにおけるブ ラ ック・ゴスペル    

ラニー・ラッカー

ブラック・ゴスペルの発祥は19世紀の後半あたりにさかのぼる。ブラック・ゴスペルは少数の黒人の間だけで人気が高く、貧乏で小さなペンテコステ・チャーチだけがその真価を認めていたのである。ゴスペル・ミュージックはその貧しい人々の日常生活に喜びと希望を与えていた。しかし、ブラック・ゴスペルはブルースに似ているということから、伝統的で洗練されたバプテストとメソジストの黒人教会には受け入れられなかった。それらの黒人教会はゴスペルに反対したのである。
 シカゴで活躍したブルース&ボードビルのエンターテイナー、『トーマス・ドーシー』(1899〜1993)が、ブラック・ゴスペルの父であるとみなされている。シカゴ市はブラック・ゴスペルの発祥地だとみなされているが、フィラデルフィア市とメンフィス市もまた、ゴスペルの影響を受けた都市だ。ドーシーは、ほとんど一人でブラック・ゴスペルを広めた。彼はジョージア州の田舎にあるバプテスト教会の牧師の息子として生まれ、小さい頃にピアノを学ぶ決心をした。しかし黒人に教えてくれる先生は近くにいなかったので、ドーシーは毎週30マイル以上歩いてピアノのレッスンを受けにいったのである。彼は十代の時にsaturday night dance でブルース・ピアノを仕事を始めた神童だった。また、それと同時に彼はその時代の”tent meeting”(テント出の伝道集会)に参加し、次第に黒人霊歌を身に付けていったのである。
 彼は、1916年にシカゴ市に移動し、1921年の夏にピルグリム・バプテスト・チャーチの教会員になった。その年にアメリカの全国バプテスト・チャーチ大会がピルグリム・バプテスト・チャーチで行われたが、はたしてその大会でドーシーは、A.W.ニッくス牧師のゴスペル・ソングをきいた。ニッくス牧師のパワーとスタイルがあまりにも印象的だったので、ドーシーはゴスペルの作曲者になろうと決心したのである。
 最初にヒットした彼のゴスペル・ソング、”if you see my savior , tell him that you saw me”は1926年に完成した。それから6年後の1932年にドーシーがツアーに出掛けている間に、彼の奥さんと子どもが亡くなったのである。その一周間後に彼が作曲したのが、”precious lord take my hand”である。
 この歌では、情熱的な献身と応答がリアリズムにクロスオーバーして歌われている。ドーシーが作った400曲の中で”precious lord take my hand”は今でも彼の一番有名な曲であり、詩も最も説得力のあるものだ。トーマス・ドーシーはブラック・ゴスペルを広めるために、シカゴ市、そしてアメリカの南部と中西部の教会を回ってゴスペルを歌ってきた。礼拝の最中はまだゴスペル・ミュージックを歌うことが認められていなかったので、礼拝が終わってからゴスペルを歌った。また、ドーシーは色々なゴスペル・グループを組んで、ツアーを行った。1931年には、彼はシカゴのエベニーザ・バプテスト教会で世界で最初のゴスペル聖歌隊を作った。これらのグループでのミュージシャンの多くが、ゴスペル・ミュージックの世界的に有名なリーダーになったのである。このグループのミュージシャンにはsallie martin, roberta martin , kenneth morris , mahalia jacksonや他の人々がいた。sallie & roberta martin の生徒たちを通して、ゴスペルの伝説が伝えられたのである。1930年代の間にドーシーは初めてのゴスペル・ミュージック・コンテストを設立した。このコンテストのためにチケットが売られたことにより、ゴスペル・ミュージックは初めて収益を得たのである。 
 トーマス・ドーシーはゴスペル・ミュージックの運命的な巨人だった。彼の原動力でブラック・ゴスペル・ミュージックが多くの人々に知れ渡ったのである。そして、反対者に対しても、彼はゴスペルを広め続けた。多くの人々がドーシーの音楽によって真のゴスペルとの運命的な出会いを果たしてきたのだ。そして、さらに、彼は様々な賞を受賞した。彼はnashvill songwriters associationに任命された最初の黒人であり、彼は1979年にはinternational hall of fame に選ばれ、1983年のゴスペル・ドキュメンタリー『say amen somebody』は彼を大きく取り上げたのである。現在では毎年8月シカゴ市で『トーマス・ドーシー・ゴスペル・ミュージック・ワークショップ』が開催されている。これはアメリカの最大のゴスペル・ミュージック・ワークショップなのである。